小平市平櫛田中彫刻美術館小平市平櫛田中彫刻美術館

田中こぼれ話

田中こぼれ話 《5》

平櫛田中が生涯を通じて深い尊敬の気持ちを抱いていたのが明治期の思想家・美術史家である岡倉天心です。

明治40年にその天心を会長に「日本彫刻会 」という美術団体が結成され、田中もその創立メンバーの1 人になりました。

その当時は西洋の彫刻が人気で、木彫界は長い低迷期に入っていました。ある時、メンバーの1人が天心に彫刻が売れるように

なるための秘訣を尋ねました。すると 天 心 は次のように答えます。「 売れない彫 刻 を作り 続 けなさい。そうすればきっと売れるでしょう。」
メンバーの多くが意味をよく理 解できない中で、「自分が作りたいものを作ればいいんだ。」と田中は理解したのです。

彫刻が好きだからこの世界に入ったのに、 売れることばかり気にしてしまうと、作品の質は悪くなり、やがて本当に 売れなくなって

しまうでしょう。このエピソードから美術界に大きな影響を与えたとされる天心の指導の様子が分かると同時に、

田中が物事の本質をすぐに理 解 できる力を持っていたことが分かります。

田中はこの言葉を生涯忘れず、彫刻を作り続けたのでした。

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平櫛田中こぼれ話《4》

平櫛田中は、筆まめな人でした。

旅行に出かけると宿泊先から当時一緒に暮らしていた次女と三人の孫たちに毎日一通ずつ手紙を書き送ることを習慣にしていました。

自宅から持参した「矢立(やたて)」という携帯用の筆記用具を使い、和紙にその日見聞きした様々な出来事を書きつづり、時おり旅の途中で見つけた草花を押し花にして貼付けるのでした。

旅行といっても、せいぜい2、3日の行程です。そのため手紙より先に本人が帰宅してしまうこともありましたが、田中は、その時々の気持ちを新鮮なまま家族に伝えたいという思いが強くあったので、そんなことは気にも留めませんでした。

当時は、現在の「メール」のように便利な伝達手段が無い時代でした。

こうした手紙類は、田中がいつ、何をして、何を考えたかを私たちに教えてくれる貴重な資料なのです。

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平櫛田中こぼれ話 《3》

今回は田中の若い頃の話をしましょう。

岡山県から彫刻を勉強するため上京した田中は、しばらく現在の台東区にある長安寺というお寺で下宿をしていました。そのお寺に郷里から持ってきた自作の観音像を置いていたところ、美術仲間が見つけて70円で購入してくれました。当時の1円は現在の3,800円くらいに相当すると考えられていますので、かなりの金額です。大きな臨時収入になったことでしょう。

けれども、この話には続きがあります。日本のある美術商がパリで発行した美術カタログを田中がなにげなく読んでいると、なんと、その観音像が「古い仏像」として掲載されていたのです。

おそらくそのようにして売った方が高く売れるので、誰かががこっそり田中が作った仏像を古いものに変えてしまったのでしょう。ほめられた話ではありませんが、田中の仏像は古い仏像と変わらぬ気品を備えていたようです。

それから、別の作品がある展覧会で買い上げとなり、上京してから立て続けに作品が売れた田中は、「東京って、なんて素晴らしいところなのだろう!」と感激しました。

しかし、そんなうまい話は長く続きません。その後作品はまったく作品が売れなくなり、しばらくの間、ひどい貧乏暮らしを体験することになるのです。                                                                             その時のことがよほど身に染みたのでしょう。のちに田中は、若い日を思い出してこんなことを書いています。

「いつも柳の下にどじょうはいません」

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平櫛田中こぼれ話 《2》

九十歳を過ぎた田中が、同じ岡山県出身の陶芸家と展覧会を見に行った時のことです。

ひととおり鑑賞してまだ時間があったので、もう一つ展覧会を見ることになりました。次の会場まであまり離れていない様子でしたので、二人は歩いて行くことにしました。

けれども、会場は想像していた以上に遠く、なかなかたどり着くことができません。陶芸家は七十歳を超えていたので、すっかりくたびれてしまいました。そして公園まで来ると芝生に足を投げ出して、タクシーを使うことを提案します。

すると田中は、「若造のくせにだらしない!」とカンカンに怒り、自分は立ったままとうとうと説教を始めました。陶芸家は自分よりずっと高齢の人にこのように叱られて、うなだれるしかありませんでした。

田中は健康のためめったに車を使わず、歩いて移動していたのです。こんな心がけがあったからこそ、田中は長い間作品を作り続けることができたのかもしれません。

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平櫛田中こぼれ話 《1》

楠木彫刻家の平櫛田中が小平市に新しい家を建て、すまいを移したのは昭和45年、98歳のときでした。

とても高齢だったので、田中の友人や知人はとても驚きましたが、それから2年後に田中が取った行動は、さらに驚くものでした。20年、30年後もまだまだ彫刻が作れるように、彫刻を彫る木(クスノキ)をわざわざ九州から買ったのです。

画家の「横山大観」、「丸木スマ」や、踊りの名人・「武原はん」の肖像など、百歳になった田中の頭の中には、まだまだ作りたい作品がぎっしりと詰まっていたのでした。

残念ながら、それらの作品は完成することなく、昭和54年に田中は亡くなりましたが、現在、そのクスノキの一部は、何物にも屈することのない田中の精神を表わすように、長い年月の風雪に耐えて、美術館の玄関前にそびえ立っています。美術館を訪れたら、このクスノキの前に立って、田中の思いを静かに感じ取ってみてください。

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